古マイセン人形の中でも非常に有名でマイセン人形を知らずとも、見たことがある方も多いと思われる作品
歴代マイセン磁器モデラーの中でも新古典主義期を代表するビッグネーム、ミッシェル・ヴェクトール・アシエとヨハン・カール・ シェーンハイトによる合作原型の代表作品が近日入荷いたします。
古マイセン人形、いわゆるネオ・クラシシズム様式の作品です。
アシエとシェーンハイトが合作で制作したマイセン人形原型は数作確認されていますが、その中でもスタンダートモデルとされ、一二を争う有名作品です。
特に入荷個体はモデル初期にしか存在しなかった「レースドール」タイプです。
大変手の込んだ作品で、衣装レース部分は実際のレースにスリップ(素地)を浸み込ませて焼成させる技法で極めて難易度が高いとされています。
彩色も現代のマイセン人形とは一線を画すコッテリとした風合いで、見るからに古マイセン人形としてのオーラを放っております。
詳細は下記をご覧ください。
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≪作品詳細≫
英名;Seated girl sleeping."Model No.E58"
原型制作年;1774年
原型制作者;ミッシェル・ヴェクトール・アシエ
Michel Vitor Acier(1736-1799)
ヨハン・カール・ シェーンハイト
Johann Carl Schönheit(1730-1805)
制作年代(推定);1900年頃
サイズ及び形状;約高さ190mm/幅130mm/奥行130mm
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ミッシェル・ヴェクトール・アシエ Michel Vitor Acier(1736-1799)
造形家、マイセン磁器マイスターモデラー
1736年1月20日にヴェルサイユ(フランス)で生まれ1799年にドレスデンで亡くなる。
1764年8月1日から1780年12月までマイセンに雇用された。七年戦争(1756年~1763年)の後は、市民層の経済的発展と自由主義の前章時期でした。そこで新しい市民的価値をマイセン社にも取り入れようとパリから引き抜かれた人物。
1764年マイセンにに入社して、ケンドラーと並んで造形家として活躍する。
ケンドラー没(1775年)後、モデルマイスターとして後継者になる。新しい時代の好みのもの(新古典主義的なルイ16世様式の作風)を作り上げ、1780年に退社するまでに200体の人形や群像を作り上げた。
ヨハン・カール・ シェーンハイト Johann Carl Schönheit(1730-1805)
造形家、マイセン磁器モデラー
1730年2月、シェーンハイトはマイセン磁器の機械工の息子としてマイセンに生まれました。
父親の影響で造形技術を幼年から習得し、11歳の年齢でマイセン磁器に雇用される。
1745年から正式に造形師としてケンドラーのもとで制作活動の一端を担うこととなる。
1764年からは白磁造形のトップ技師となり、以降ケンドラーやアシエの時代において非常に重要な作品を世に排出いたしました。
1772年、後にシェーンハイトの代表作となる「五感の寓意」制作
1782年、Mythology 神話オリンポス12神をJüchtzerと共同制作
1787年、大作「決定的な選択」「二人の求婚者」制作
などなどです。
上記はほんの一例でマイセンを代表する名作を数多く制作しています。
ケンドラー死後以降アシエの時代も含み、影のトップモデラーとしてマイセンに君臨しました。
俗に言う「無冠の帝王」、トップモデラーの称号がなかったため謎多き造形師となり、それが要因して逆に近代では作品の流通量が少ない事もあり人気が高くなったようです。
晩年は病との戦いで1794年にマイセン磁器を引退。
引退以降もマイセンに居住し、同氏の最高技術を後世のモデラー達に伝えたと言われています。
1805年5月27日、生涯住み続けたマイセンにて死去。