マイセンマークの歴史

コバルトブルーのマイセン窯印の双剣は1722年に採用されました。窯印は、シュヴェルターと呼ばれる窯印を描くことを専門とする絵付師によって一点一点手描きされます。
アウグスト強王の紋章である剣の描き方は、歳月とともに微妙に変化があり、当初は剣が真っすぐで、鍔の部分はわずかに曲がり、柄頭も表されていましたが、時代が下がると、よりサーベルに似た形となり、刃は優雅に湾曲し、鍔は真っすぐになり、柄頭は示されなくなりました。また、刃の交差する位置もしばしば上下に移動、さらに、星形や点、弓形などのマークを双剣に書き添えられたのも現れました。
こうした窯印の変遷は、作品の製作年代決定の手段の一つとなっています。また、マイセン磁器製作所の商標として1875年以後、国内外に登録され、かつ法的に保護されています。

1720-
ヨーロッパ初の磁器を作らせたアウグスト強王のモノグラム。君主が使用する磁器のマークとして用いられました。アウグスト強王の没後もしばしば用いられていますが、20世紀になってからは、製作年を書き加えることによりオリジナルとの混乱を避けています。

1731-1763
交差する双剣は、シュタインブリュックの提案により、ザクセン選帝候の紋章からこの形のままで取り出され、1723年以降、一つの商標として用いられるようになり、1731年から63年には、つねにこの窯印が描かれるようになりました。

1763-1774
1756年以後、とくに1763年から74年には恒常的に、二本の剣の鍔の間に意味の不明な小さな点が一つ表現されるようになりました。剣の形もまた、すでにかなり変化をみせています。

1774-1815
双剣の柄の間に描かれた小さな星形は、マルコリーニが工場長を勤めていた時代の製品であることを示すもので、1774年から1815年まで用いられました。

1815-1820
〈マルコリーニの星〉の廃止後、1820年まで、柄の間には数字のIが描かれ、その後どのくらいの期間かはっきりしませんが、IIも用いられています。

1820-1924
以後、双剣の窯印には何も加えられることなく、描き続けられました。わずかに緩やかな弧を描いた刃は、比較的高い位置で交差し、それが下方の柄頭を引き立たせています。剣はこの形のまま1924年まで変化しません。

1924-1933
マックス・アドルフ・ファイファーの経営による時代、剣は優雅に湾曲し、柄頭は描かれなくなり、代わって剣先の中間に小さな点が描かれるようになりました。この窯印は1924年から33年まで用いられました。

1933-1945
1933年から45年まで、双剣の窯印はほぼ一定した形で描かれていますが、〈ファイファーの点〉はありません。

1945-1947
第二次世界大戦の終結から1947年までの短期間、上方が開いた弓形が双剣の下に描かれました。

1947~
今日、双剣の窯印には何も書き加えられていません。刃の交差する位置は比較的中央で、鍔は刃と反対方向にほぼ同様の弧を描いています。

この窯印は1972年以後の特別な製品に描かれています。また、すべての印刷物にも国立マイセン磁器製作所のシンボルとして入れられています。
マイセンの伝説たち

ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー(1682 - 1719)
アウグスト王から命じられ、欧州で始めて磁器土を発見しその製法を完成させた錬金術師。当時、卑金属(鉱物)を金に変える研究家を錬金術師と呼び、様々な研究がなされていました。ベトガーは薬学にも優れており、その手腕を見初めたアウグスト王が白い磁器の発明へと命じました。1700年にシュネーベルグ近郊の聖アンドレアス鉱山でカオリンを産出し、磁器の主原料を手に入れます。その後5年間、磁器焼成の発展はありませんでした。苦しみ抜いたベトガーは幾度と城から逃亡します。その度にアウグスト王に逮捕され、磁器の開発を強いられ、1706年、アルブレヒッツ城内で炻器(せっき)の試作に成功します。それを元に、焼成と長石の化学反応で半透明の白に変化することを発見。遂に1709年、欧州初の白い磁器を完成しました。1710年にはアルブレヒッツブルグ内に工場が設立されマイセンの生産が始り、アウグスト王の念願がかないました。そして、磁器作成の工法が他国に漏れるのを防ごうとベトガーの監禁を続けたのです。外出が許されなかったベトガーは酒に溺れ、1719年に37歳の短い生涯を閉じます。

ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト(1696 - 1775)
1720年~中期にかけ活躍した絵付け師ヘロルトは、マイセンでのコバルトを顔料にした絵付け技法や赤絵の顔料なども発見し、マイセンの発展に大きく影響した人物。絵付師の育成にも情熱を注ぎ、現在のマイセン国立製陶養成学校のスタイルを構築したのも彼の功績です。マイセンのシノワズリーを極め、理想のユートピア「中国」の生活を具象化した図案を多く描きました。これはいかにも東洋趣味のアウグスト王の好みであり、また、多くの王侯貴族を魅了してマイセンに注文が殺到しました。

ヨハン・ヨハイム・ケンドラー(1706 - 1775)
アウグスト王によってその才能を見出された宮廷彫刻家ケンドラーは、マイセン磁器初期~発展期にかけて欠かすことのできない人物のひとりです。1706年、ドレスデンに近いフィッシュバッハに誕生したケンドラーは、1723年に宮廷彫刻家トーマエの弟子となります。1730年に独立、1735年に磁器の小彫像の他に「白鳥の食器セット」を制作します。1736年に小動物を多数制作、1741年にイタリア喜劇役者をはじめとする人物小像を制作しました。1747年には有名な「猿のオーケストラ」を制作、ほか数々の原型を残します。1775年に68歳で生涯の幕を閉じますが、ケンドラーについては謎が多く、第一次大戦でマイセンの多くの資料が消滅しているのが原因とも考えられます。

グラーフ・マルコリーニ
18世紀後半、封建主義に市民階級が反発し、次第にロココは衰退していきます。反して日常的で実生活に合ったものが求められるようになりました。歴史の変動と美術様式の変化に、マイセン磁器製作所も存続の危機に瀕していきました。1774年、工場の再建を図るため、マルコリーニ伯爵がマイセンの工場長として就任します。彼はすぐに剣に追加の印を入れるよう指示し、煌びやかな作品を残しつつも時代のニーズに合った作品を世に広めていきました。時代の波を見事乗り越える事が出来たのです。彼の在職した40年間には、花模様の絵付けなどにおいては新古典主義の影響が見られます。彼が工場長を務めた期間は「マルコリーニ時代」と呼ばれ、この時代のマイセン作品をコレクターの間では「マルコリーニ」と呼ばれ続けています。

パウル・ショイリッヒ(1883 - 1945)
20世紀初頭に出現したパウル・ショイリッヒは、ケンドラーが築き上げた造形を踏襲しつつも、ロココのような華美な装飾をとは違った新しい様式美を作り出しました。パリで「現代装飾美術・産業美術国際展」が開かれた1925年は、いわゆるアール・ヌーヴォーからアール・デコ様式へ移行する時期でした。ショイリッヒはその10年ほど前に、アール・デコを予感させる作品を次々発表しています。1937年のパリ万博では、6点の作品がグランプリを受賞。彼の活躍により、マイセン磁器製作所は再び王者の道を歩むことになったのです。
ハインツ・ヴェルナー(1928 -)
ハインツ・ヴェルナーは、ザクセン生まれの絵付師です。その偉大な功績は、300年近いマイセン磁器の歴史においても、特筆すべきものです。今日マイセンを代表する数々の絵付けデザインは、主にヴェルナーによって創案され、その作品は幻想的でメルヘンあり、ファンタジーあり、かつ生命力にあふれています。まさに現代マイセンを代表する顔と言っても過言ではないでしょう。マイセン磁器製作所設立250周年にあたる1960年、マイセンではいわゆるロココ期の偉大なマイセン磁器作品に匹敵するような、新しいデザインのマイセンを創造しようと「芸術家創造集団」が結成されました。「五大芸術家」と呼ばれるアーティスト達です。その中心人物がハインツ・ヴェルナーであり、その功績を称えられてドイツの人間国宝に選ばれ、現在のマイセン磁器製作所の最高顧問でもあります。


現代マイセン五人組
敗戦とともに工場はソヴィエトの管理下に置かれましたが、1950年東ドイツ成立を受けて国立マイセン磁器工場として再スタートしました。1960年に工場創設250周年を機に「芸術創造のための集団」を結成しその中から現代マイセン五人組が誕生しました。モデラーのルードヴィヒ・ツェプナー、画家のハインツ・ヴェルナー、モデラーのペーター・シュトラング、磁器装飾のフォルクマール・ブレッジナイダー、磁器装飾のルーディ・シュトレらで、1975年に国家功労賞を授与されました。現代マイセンの創生です。
左よりペーター・シュトラング、ハインツ・ヴェルナー、ルディ・シュトレ、フォルクマール・ ブレッチュナイダー、下段中央ルードヴィッヒ・ツェプナー
マイセン磁器の製作工程

~磁土の製作~
硬質磁器の製造に不可欠なカオリンを、マイセンでは、近くの自社鉱山で採掘しています。世界最小の「鉱山」と呼ばれるザイリッツ。ここでマイセン磁器に白さと硬さを与えるカオリンが、人手で掘り出されています。カオリン、石英、長石という原料のうち、カオリンは65%という非常に高い割合を占めていることが、マイセン磁器の特徴になっています。これらを泥状にし、水分をある程度抜いて「磁土」を作ります。
~造形~
食器や花瓶の場合は手動式の回転ろくろや蹴ろくろを用いて造形します。
人形の場合には石膏型を用いますが、この石膏型がマイセンの宝ともいえるものです。
マイセン初期の天才造形家、ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーは、自身が生み出した優れた作品が後世においても作り続けられるよう、石膏で「型」をとることを考案しました。磁土でまず形づくり、それをパーツごとに切り分けて、そこから石膏型を起こすのです。
マイセンには、戦禍を逃れた23万種類以上の作品の型(原型)が保管されており、それらを母型として作る作業型から、現在でも昔と同じ手法でさまざまなフォームの作品が生まれています。
原型保管室には45000種の型があり、うち20000種はテーブルウエア用、25000種は置物用です。しかしながら時には100種類の型を組み合わせて一つの作品を作ることがあります。
石膏鋳型は繰り返し使用するうちに磨り減ってしまうので原型で方をとる職人は母型を確保してたえず新しく作れるようにしておかねばなりません。このことは機能的なパーツも装飾的なアイテムにも当てはまることです。鋳型は基本的には石膏で作られますが、細部に陶土が使われることがあります。


~人形~
パーツごとに作られ、磁土で貼り付け一体となった人形は、素焼き、施釉(うわぐすりをかけること)、本焼成を経て、人形絵付部門に回されます。
ここで歴史に忠実に、ひとつひとつ絵付され、金彩も加えられ、仕上げの焼成を行ないます。
焼成後、金の部分をめのうの棒で磨き、完成されます。
人形制作においては、石膏型を使用せず、手びねりだけで作り上げるものもあり、人気をよんでいます。
人形制作者には300年前の人形も、現代の人形も、すべて作れる技術と芸術的感性が要求されます。

~絵付け~
絵付には、大きくわけて「下絵付」(染付)と「上絵付」があります。
下絵付の場合には、絵付は約900度で行なわれる「素焼き」のすぐあとに行なわれます。
多孔質の、レンガのような状態のところに絵付するため、顔料は一気に滲みこみ、修正することができません。
そこで非常に高い技量が必要とされます。
絵付後、釉をかけて約1400-1450度で「本焼成」すると、輝くような色合いが生まれます。
代表的な絵柄はブルーオニオンやブルーオーキッド、ワインリーヴなどです。
上絵付の場合には、磁器は何も描かれていない状態で施釉し、本焼成後、絵付を施します。
ガラス質の釉薬で覆われているため、アルコールなどで拭けば修正も可能です。
18世紀からマイセンの工房内実験室で作られる1万色もの顔料を多様に組み合わせ、花や鳥、果物、風景、人物などが描かれます。
その後約900度で仕上げの焼成を行ないますが、複雑な色合いを出す必要があれば、絵付しながら何度も焼成してニュアンスを深めていきます。
マイセン養成学校では、1764年に設立されて以来、数世紀にわたる経験に基づき、かつ新しい考えを取り入れた実践的でかつ理論的な教育が行われ、才能ある若者が過去と同じレベルのマイスターを目指しています。
特に自然描写に重点が置かれており、花、植物、果物、鳥、人物、風景を題材に絵画技術の習得を訓練しています。
テーブルウェアの代表的なフォーム

FORM No.00 Neuer Ausschnitt
ノイアー・アウスシュニットは1745年にケンドラー考案したフォームで、インドの華などのシノワズリからドイツの花までマイセンのテーブルウェアの最もポピュラーなフォームです。ケーキ皿はコーヒーとティー兼用です。
FORM No.03 Neumarseille
1739年にケンドラーにより完成されたフォームで花をモチーフにしたレリーフが優雅なテーブルウェアです。ワトーの風景や花によく用いられますが、マイセンフラワーやシノワズリのフォームとしても使われています。ワトーの高級モデルでは花柄のレリーフに金の縁取りが添えられています。


FORM No.05 Schwanendessin
スワンサービスは、1735-1741年にかけてケンドラーと助手のエーベルラインがブリュール伯のために創案したデーブルウェアです。総数1400点を超える全ての器に白鳥のレリーフとイルカやカタツムリなどの装飾が加えられた彫刻的で造形的なディナー・サービスです。レリーフのみの白磁のモデルやインドの花が添えられたモデル、レリーフにも彩色されたモデルなど様々です。
FORM No.14 Biedermeier mit Bord
ナポレオン戦争が終結した1815年~19世紀半ばにかけてドイツではビーダーマイヤー様式と呼ばれる生活様式が好まれました。それまでの宮廷風の派手なロココ様式ではなく、中産階級の日常生活にロココ趣味が取り入れられました。マイセンでもこの時期にビーダーマイヤー様式が取り入れられています。FORM13が貝殻のないモデルで、FORM14が貝殻付きモデルです。特にFORM14の貝殻の金彩レリーフで縁取られたテーブルウェアは人気のモデルとなり、主にマイセンフラワーのフォームとして使われています。


FORM No.15 B-Form
Bフォームはパリ万国博覧会が開催された1855年にアーネスト・ロートリッツによってデザインされたフォームです。1827年にキューンが開発したグランツゴールドという金を使用したモデルは小花を添えることにより最高級のテーブルウェアとなりました。特にグランツと小花の組み合わせは最高です。
FORM No.17 X-Form
XフォームはBフォーム同様19世紀後半にデザインされたフォームです。カップやプレートは葡萄の葉をモチーフとしたレリーフで縁取られ、全体的に流線型のフォルムがとても優雅なモデルです。Bフォームと同じくグランツと金彩の2タイプがあり、色付もあります。

